孤独であるということ

僕は孤独が嫌いで、孤独が好きだ。

思い切り哲学的に聞こえることを言って気取ってしまいましたが、この通りなんです。

普段の言動にわかりやすく表れていると思うが僕は寂しがり屋だ。寂しがり屋という言葉もこれまた何か哀れな存在や悲劇のヒーローを気取っているような匂いがするから普段遣いには少し気恥ずかしい言葉ですが。大学時代に常に人といたせいか急に一人でいると人肌恋しくなる。いかにも僕がいそうなメンバーで遊んでるけど僕だけいないときとかもそうだ。僕にとって何人もの会いたい人は、こんなに会っていないと僕のことを忘れていたりしないだろうか、という不安が生まれる。この寂しさそのものを甘美なものとして味わう事ができる人もいるが、少なくとも時間を置かないと僕には到底できない。

あといわゆるコミュ障なのですでに出来上がっているが自分は初対面というコミュニティや、単純に自分と話が合わない人が多い場では喋ってくれる人が当然いなくて、誰も自分に興味がないのかなと感じてしまう。好きな人はいないだろうが、これも嫌な孤独だ。

 

じゃあ好きな孤独とは何か。

夜遅くに一人で出歩いている時、音楽なり絵画なり映像なり壮大な作品を見た時、知らない街に来た時。後ろ2つは一人じゃなくても当てはまる。どうしてこの孤独が好きなのかを具体的に言葉で説明するのは難しいが、「自分は世界を前にあまりに小さく、自分などいなくても世界が当たり前に回ることをまざまざと見せつけられる瞬間」にこのたまらない孤独感に浸れる時のように思える。

f:id:dixie_gypsy:20200809111544j:plain

こういう感じのイメージ

1つ目の事例を補足するなら、出歩いているだけだと他の人と一緒にいると会話に持っていかれて感受性が鈍るのと、昼間より夜のほうが皆活動をしていないはずなのに静かに動いているという印象が大きいからだと思う。これはよくある夜=エモといった単純な感覚とは違うと自負している。むしろそれは本来一人でいるべき時間に人といることで孤独をかき消しているだけだから真逆じゃないかな。

話を戻すと、そんな世界を目の当たりにすると「外界は自分に見向きもせず動いていて、かつ自分の行動の選択肢とそれを実現できる範囲があまりにも広すぎる」という一種の自由を感じるのである。タスクが多くて生活に自由がないときですら、その瞬間だけは何者にも束縛されない自由を感じる。その自由は精神面の安らぎでもあるが、時と場合によっては身体までもが重力から開放されるような錯覚を覚える。空すら飛べるように思える。空だけじゃなく、自分を見ずに動き続ける世界のほんのひとかけらをこっそり自分の世界に引き込んで意のままにするファンタジーすら思い描ける。この自由こそが孤独感に浸れる理由ではないかと僕は考えています。

 

じゃあそんな全く別の孤独を並列で語ってもしょうがないだろとなるが、この2つの孤独は全く別ではなく、近いものがあると僕は感じる。

大人数の中で一人で酒を飲んでいる時も、自分がとても小さく感じる。僕が会いたい人が僕のことを忘れている時も、自分などいなくてもその人達は当たり前に生きている。寂しい話だがこの寂しさが自由に繋がっている。その寂しさを単純な寂しさとして消化するか自由として昇華させるか、僕の場合自分のいる場所や時間、その時五感で得る刺激がその選択をかなり左右しているから、その孤独が好きにも嫌いにもなりうる。一人でいることに不安にならない人は昇華の選択をうまくできる人か、先に述べたように常に寂しさにすら浸れる人か、あるいは自由を求めるのを忘れてしまった寂しい人かだろう。

 

 

こういった(一般的には)正と負の印象を持つ者同士が同じ線上にあることをたまに感じる。美しさの向こう側に死が見えたり、行き過ぎた擁護が傷つけることに繋がったり。ちょっとこれだけでは抽象度が高すぎるので、かなり僕の感覚に基づくものですが説明させてもらいます。

前者はなにか美しいものたちにはやがてそこに死が待っているから今の生が輝いているという終わりあるものの美学だけではない。美しいものには皆二面性があり底抜けな明るさだけではなくどこかに影や哀愁を必ず持っていて、底なしの暗さだけではなく光や希望を持っていて、彼らの持つその二面性は今生きている自分にとって近い存在にも現実世界を逸脱した遠い存在にも感じさせる、つまりそれは一番イメージとして近いのは死なのではないかということ。加えて、美しいものには感じる者をその世界に引き込む力があり時にはそれに触れるために、交わるために死さえ厭わなくさせてしまいそうな魅力があるということ。良い具体例を交えられない自分の思考に腹が立ちますが、こういった背景からか美しいものに触れると僕はぼんやりとした死をその向こう側に感じることがよくあります。

後者は今まで書いた内省的なことよりわかりやすいことかと思います。僕は人種差別には反対だけれど、思考が人ほど巡らない自分の物言いが無意識な差別発言になってしまうのを恐れて今まであまり昨今のBLMなどについて発言しなかった。けれどあるニュースを見てこれを思った。「黒人保護を掲げた団体が黒人のための居住区を作った」たしかこんなニュースだった。黒人の人権を保護しなければならない、という考えを推し進めた結果アパルトヘイトと似た環境を作ってしまっているように思える。人種差別だけの問題ではない、LGBTについても、それを人に明かしたら気を使われて特別扱いされてなぜか励ましの言葉をくれる人がいるが、当人たちが望むのは「へぇ、そうなんだ」くらいの一般的な扱いであるという話もだ。動物の保護のために害虫や天敵を駆除したら却ってその動物を危機に追いやってしまう、この話もだ。絶妙なバランスでの調和が期待される多くの物事に関して、偏りを修正しようと立場の弱い側に一気に肩入れするとその天秤はグラグラ揺らいで崩れてしまうというのがこういった事柄から得られる教訓ではないでしょうか。至極当然のことだけれど注意していないと知らぬ間にこれをやってしまうことが多々ある気がする。

 

 

自分が思っていたことを近い話題が出た時にここぞとばかりに持ってきたくなるのでついつい脱線してしまいました。しかし今本線に繋ぎ直せるのは、僕は孤独における寂しさと自由のバランス、これは少なくとも僕にとっては必要なものであり無理にどちらかばかりを取ろうとしてはいけないということです。いつだって一人でいられる人間が立派という考えを時々見かけますが、それは僕にとってはあまりにさっぱりしすぎていて趣に欠ける。寂しい孤独を嫌いと言ったけれど、その時嫌に感じても後になってみるとその感情こそ言葉にし難い深みがある。寂しさを昇華させずそっととっておく時間も一期一会の人の世ならば必要じゃないでしょうか。けれどだからといって寂しさを抱え込んでウジウジしていても湿っぽすぎる。どこか寂しく哀愁を抱えながら自分だけの、少しばかり現実世界を離れた自由を描くのが僕にとっての孤独とうまく付き合う美しい生き方なのかなと考えました。自分の生き方を眺めて死がちらつくのもどうかなとは思いますが。孤独と身近なコロナ時代だからこんなことを書きました。

かなり漠然とした感情や感覚を思考に変換した自分なりの解釈を綴っただけなので、ここは違うとか自分はこう感じるとかあったら何でも言ってください。